舞台『Op.110 べートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』鑑賞ガイド
『Op.110』の世界を深く知りたい方に。舞台に登場する「ひと」「もの」「音楽」を、歴史的背景から解説するガイドです。
文:かげはら史帆 ライター
東京郊外生まれ。著書『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(柏書房)。ほか音楽雑誌、文芸誌、ウェブメディアにエッセイ、書評などを寄稿。
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第8回 “Op.110” ピアノ・ソナタ第31番をめぐって
最後から2番目のピアノ・ソナタ
さて、この鑑賞ガイドのしめくくりとしてお届けしたいのは、……“Op.110”。
舞台『Op.110 べートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』に登場するもっとも重要な作品です。
Op.(opus/オーパス)とは、作品番号という意味。ベートーヴェンは、出版に至った作品の多くに自ら「Op.XXX」という通し番号をつけていました。
さらに、慣用的に使われているジャンルごとの通し番号もあります。この作品のピアノ・ソナタとしての通し番号は「第31番」。ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタは第32番なので、この作品は最後から2番目にあたります。亡くなる約5年前に完成しました。
ベートーヴェンにとってピアノは人生の相棒だった、というお話を前回書きましたが、ピアノ・ソナタは、ベートーヴェンのライフワークと呼んでいいジャンルでした。少年時代に書いた習作から、50代前半で書いた最後の作品に至るまで、創作期間はおよそ40年間におよびます。
ピアノ・ソナタとは、いったいどんなジャンルなのでしょうか。
そして音楽人生の長い道のりの終盤に書かれた “Op.110”とは、いったいどんな曲なのでしょうか?
そもそも、ピアノ・ソナタって何?
ソナタというジャンルは、多くの場合、「楽章」と呼ばれる複数の曲によって成り立っています。ベートーヴェンの先輩にあたるハイドンやモーツァルトの時代には、全3楽章もしくは全4楽章が主流でした。3~4トラックが収録されたシングルやEPのようなイメージです。
第1楽章は、作品全体の「顔」ともいえる快活なテンポのキャッチーな曲。
真ん中の第2~第3楽章は、ポップスでいうところのバラード調のしっとりした曲や、メヌエットなどのダンス音楽をベースにしたリズム豊かな曲。
そして最後の楽章は、しめくくりにふさわしい華やかな曲。
ポップスにAメロ、Bメロ、サビ……という基本構成があるように、当時の曲にも好まれる構成がありました。とくにソナタの第1楽章は、「2つのテーマが登場~そのテーマをさまざまな変化形で魅せて曲を盛り上げる~再び2つのテーマに戻りながら終わりに向かう」という構成を用いるのが原則でした(これはのちに「ソナタ形式」と呼ばれるようになります)。
ところがそうした原則は、時代を経るにつれてどんどん崩れていきます。とくにピアノ・ソナタにおいては、枠にとらわれないさまざまな実験が行われるようになりました。たとえば有名な『月光ソナタ』は、いきなり、真ん中の楽章のようなゆっくりした曲からはじまります。「顔」である第1楽章がないだなんて!当時の人びとにとっては、びっくり仰天の作品だったでしょう。
ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 Op.27-2「月光」 - 第1楽章
どんどん新しいスタイルを試して、オリジナリティを追求していく。そんな冒険ができるのがピアノ・ソナタというジャンルだったのです。
“Op.110” 終楽章を味わう2つのポイント
“Op.110”も、さまざまな創意工夫を感じさせるピアノ・ソナタです。
全部で3楽章。どの楽章にも興味深いポイントがありますが、ここでは、第3楽章に注目してみましょう。
ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 Op.110 – 第3楽章
最後の楽章は、しめくくりにふさわしい華やかな曲──と、先ほど申し上げました。
しかしこの“Op.110”の第3楽章は、派手なテクニックで人を魅了するタイプの曲とはまったく違います。
とくに重要なポイントはふたつ。「歌」と「フーガ」です。
この第3楽章は、歌のような雰囲気をたたえているといわれています。
なんといっても、序奏のあとにはじまるメロディがとても印象的(上記リンクの11:54~)。わずか数分の短い箇所ではありますが、歌詞をつけて口ずさみたくなるような美しさと哀しみをたたえています。
実はこの箇所、ベートーヴェンが自ら「嘆きの歌」と名づけています。下降していくメロディは、悲嘆にくれる想いを表現するときによく用いられます。かなり意味深長な雰囲気です。
そしてそれに続く形でフーガが登場します。フーガとは、簡単にいうと、同じメロディが複数のパート、かつそれぞれ異なるタイミングで何度も繰り返される形式のこと。メロディが次々と織り重なって、万華鏡を思わせる無限の世界が展開されます。
じっくりと聴いていると、同じメロディが何度も登場しているのがわかるでしょうか。
ベートーヴェンは、晩年、フーガを使った作品を数多く生み出しました。フーガは昔からある作曲の技法ですが、それを自分流にアレンジして取り入れることによって、新しい音楽の世界を作り出そうとしたのです。
誰にも献呈されなかったソナタ
さてベートーヴェンは、自分の作品を出版するにあたって、いつも献呈相手を慎重に考えて決めていました。
ところが、このソナタは誰にも献呈されていません。これはベートーヴェンのピアノ・ソナタのなかでは比較的珍しいことです。
“Op.110” 出版譜の表紙
献呈者がいる場合は表紙に名前が記載されるが、
このソナタは献呈者がいないため記載がない。
「ほんとうは献呈したい人がいたが、できなかったのかもしれない」「あえて献呈しない理由があったのかもしれない」そう考える研究者もいました。
そのひとりが、青木やよひという日本人研究者でした。おもにベートーヴェンの「不滅の恋人」研究に人生を捧げた彼女は、恋人候補と“Op.110”との関係に着目し、嘆きの歌の箇所を「悲しみと悔悟の涙」と表現しました。
舞台『Op.110 べートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』は、青木やよひの説をベースにして創造されたフィクションです。
研究者が提示するのはあくまでも新しい解釈であり、それが絶対に正しいわけではありません。
しかしその鋭いひらめきや探究の情熱は、ベートーヴェンを、あるいは彼の作品を、ときに実物をしのぐほどに強く輝かせます。
この舞台は、きっとその輝きを客席にたくさん届けてくれるはずです。
アントニー・ブレンターノが、フェルディナント・リースが、あるいはほかの登場人物たちが、ベートーヴェンとはいったい何者だったのか、不滅の恋人とは誰だったのかという問いに対峙し、そのひとつの可能性をみせてくれる『Op.110 べートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』。
この鑑賞ガイドの筆者も、観劇の日を心待ちにしています。
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