舞台『Op.110 べートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』鑑賞ガイド
『Op.110』の世界を深く知りたい方に。舞台に登場する「ひと」「もの」「音楽」を、歴史的背景から解説するガイドです。
文:かげはら史帆 ライター
東京郊外生まれ。著書『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(柏書房)。ほか音楽雑誌、文芸誌、ウェブメディアにエッセイ、書評などを寄稿。
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第2回 2大シンデレラ候補、ジョゼフィーネとアントニー
正反対の2大シンデレラ候補
ベートーヴェンの好みのタイプは、ズバリ「貴族の女性」だったといわれています。
たしかに「不滅の恋人」候補の女性は高い身分の人ばかり。ベートーヴェンが強いパートナー願望を持ちながらも結婚に至らなかったのは、高嶺の花を求めすぎたからだ──そんな主張をする専門家もいます。
ですが、当然ながら、貴族の女性も性格や境遇はさまざま。とくに「不滅の恋人」2大候補であるジョゼフィーネとアントニーは、「これ、なんの小説!?」とツッコみたくなるほどの正反対な人物です。
舞台『Op.110 べートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』で、ふたりがどのような形で登場するかは観てのお楽しみ──として、ここでは、実在の彼女たちがどのような人物だったかを追っていきましょう。
相手を振り回すハラハラ系ヒロイン──ジョゼフィーネ
ジョゼフィーネ・ブルンスヴィック
ジョゼフィーネは、ハンガリーの伯爵家ブルンスヴィックの次女として生まれました。早世した父のアナトールは、かつてオーストリアの女帝マリア・テレジアに仕え、当時としては非常にリベラルな思想の持ち主だったといわれています。
ジョゼフィーネものびのびと少女時代を過ごしました。
ベートーヴェンとの出会いは1799年、20歳のころ。姉のテレーゼとともに、当時28歳のベートーヴェンからピアノを教わります。ベートーヴェンは若い頃、家庭教師のアルバイトさながら、貴族を弟子にとって一定の収入を得ていました。
姉のテレーゼは、第1回でも記したとおり、かつては「不滅の恋人」最有力候補といわれていました。つまり姉妹そろって、ベートーヴェンと噂があったわけですね。
とはいえ、この当時は何も起きませんでした。
というのも、ベートーヴェンは、彼女たちのいとこジュリエッタの方に夢中になってしまったからです。
30歳ごろのベートーヴェン
しかしベートーヴェンとジュリエッタの関係はあまり長く続きませんでした。その証拠にジュリエッタは、1803年、別の男と結婚してイタリアへと旅立ってしまいます。
その間、ジョゼフィーネも結婚していました。相手は30歳近く年上の伯爵で、結婚生活は幸福なものとはいえず、しかも夫は結婚からわずか5年後に亡くなってしまいます。とき1804年。ベートーヴェンもジョゼフィーネも、思いがけず近いタイミングで「フリー」の身に。最初の出会いから5年を経て、ふたりは互いに惹かれ合っていきます。
ところがジョゼフィーネは、いつしかベートーヴェンを冷たく突き放すようになり、1810年にはある男爵と唐突に再婚してしまいます。それでいて、ベートーヴェンのことが嫌いになったわけではない様子。それなら、いったいなぜ……? そして、そんな彼女がもし1812年に愛を交わしあった「不滅の恋人」なのだとしたら、そこにはいったいどんな急転直下のドラマが……!?
残された手紙や証言から彼らふたりの関係をみると、どちらかというとベートーヴェンがジョゼフィーネの不安定なメンタルや理解不能な行動に振り回されている印象も受けます。相手をいつもハラハラさせてやまない女性、それがジョゼフィーネなのです。
幸福の仮面をつけたヒロイン──アントニー
アントニー・ブレンターノ
さてアントニーは、20世紀後半になってはじめて「不滅の恋人」候補としてクローズアップされた女性です。
ベートーヴェンと交友があったことは、生前から知られていました。なのに、なぜ100年以上にわたってノーマークだったのか? それは、彼女があまりに「不滅の恋人」らしくないキャラクターだったからです。
生まれはウィーンの伯爵家。父のビルケンシュトックは、ジョゼフィーネの父と同じくマリア・テレジアに仕えた経歴をもち、学識豊かで、また美術品のコレクターとしても知られる政治家でした。娘のアントニーもまた、語学と音楽に秀でた才女として成長していきます。
そんなアントニーを見初めたのが、15歳年上のフランツ・ブレンターノという男でした。当時すでに一大経済都市として栄えていたフランクフルトで、実業家として成功をおさめていた彼は、その財力を武器に求婚。ふたりは1798年に結婚し、フランクフルトで新婚生活をはじめます。
彼女がベートーヴェンと接近したのは1809年末。父が亡くなり、遺品のコレクションの処理のためにウィーンの実家に滞在している頃でした。ベートーヴェンはこのビルケンシュトックの屋敷に足しげく通い、ピアノを弾いたり、子どもたちと遊んだりしたといわれています。とくに娘のマクシミリアーネは彼のお気に入りで、「私のガールフレンド」と冗談めかして呼ぶこともありました。
ベートーヴェンにとって、自分を支援してくれる貴族の家に出入りし、家族ぐるみでつきあうことは、決して珍しくありませんでした。ましてやアントニーは、富豪の夫に愛され、子宝にも恵まれたセレブ妻。あえてベートーヴェンと不倫するような理由は見当たりません。
アントニーの夫、フランツ・ブレンターノ。
文学者ベッティーナ・ブレンターノは異母妹
しかし、「不滅の恋人=アントニー説」を提唱する研究者たちは、近年、こうした従来のイメージをくつがえすようなアントニー像を打ち出すようになりました。
──一見すると幸福に見える彼女は、実は人知れぬ深い闇を心に抱えていた。
──その闇を知ったベートーヴェンは、彼女を家庭から外の世界へ連れ出そうとした。
──“「不滅の恋人」への手紙”は、そんなふたりの逃避行を暗示している。
──実はジョゼフィーネとの関係も大きな鍵に……!?
予想外の大胆な解釈で人びとを驚かせた「アントニー説」。ジョゼフィーネ説に匹敵する波乱のドラマを秘めている、といっても過言ではありません。
シンデレラがみせるベートーヴェンの本質
ジョゼフィーネとアントニー、どちらが本物のシンデレラなのか? その謎は、ベートーヴェンの生誕250年に至った本年もいまだ解明できていません。
しかし研究者たちは、単に「どちらがラブレターの宛先か」という恋愛スクープを追いかけてきたわけではありません。彼らが真に知りたいのは、その答えの先にあるベートーヴェンの恋愛観、人生観、ひいては音楽観。その意味では、たとえ未解明であっても、この手紙の発見と研究がもたらした意味は計り知れません。
そして過去の研究成果をもとに創られた今回の舞台からも、その本質の部分はきっと存分に感じられるはずです。
さて、2回にわたって女性を取り上げましたが、『Op.110 べートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』にはもうひとり注目したい重要な人物がいます。それこそが「フェルディナント」──ベートーヴェンの愛弟子として知られる音楽家です。
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