舞台『Op.110 べートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』鑑賞ガイド
『Op.110』の世界を深く知りたい方に。舞台に登場する「ひと」「もの」「音楽」を、歴史的背景から解説するガイドです。
文:かげはら史帆 ライター
東京郊外生まれ。著書『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(柏書房)。ほか音楽雑誌、文芸誌、ウェブメディアにエッセイ、書評などを寄稿。
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第4回 語り手としてのフェルディナント
人生は師との別れから始まった
1805年。ベートーヴェンが未亡人となったジョゼフィーネとお付き合いしていた頃。
20歳になったフェルディナントは、召集令状を受け取ってしまいます。
18世紀末に故郷のボンを巻き込んだフランス革命戦争は、軍師ナポレオン・ボナパルトの台頭により、ヨーロッパ全土を巻き込む大戦争へと発展。フェルディナントはフランス人ではないにもかかわらず、フランス軍から従軍の命令を受けてしまったのでした。
彼は涙ながらに師匠に別れを告げ、ウィーンを離れます。
アウステルリッツの戦い(1805年)
その後なんとか徴兵を免れた彼は、音楽家として身を立てるために、戦禍をかいくぐってパリ、ドイツ各地、北欧、ロシア、そしてイギリスへと旅をして回る波乱の20代を送りました。
ベートーヴェンが“「不滅の恋人」への手紙”を書いた1812年には、彼ははるばる北の果てのサンクトペテルブルクで、ピアノ演奏と作曲に明け暮れていました。
当時はさらなる新天地を求めて、アメリカに移住することさえ考えていたといいます。
成人以降のほとんどをウィーンとその近郊で過ごした師匠よりも、はるかにワールドワイドなスケール感をもって行動した人だったともいえるでしょう。
師の死から10年後に書かれた『伝記的覚書』
40代以降のフェルディナント・リース
その行動力の成果といえるでしょうか。フェルディナントは、ピアニストとして、指揮者として、また作曲家として、「ベートーヴェンの愛弟子」の名にふさわしい成功をおさめました。
とくに全8曲の『ピアノ協奏曲』は、先輩のベートーヴェンから後輩のショパンへの橋渡しとも呼ぶべき珠玉の作品たち。大作曲家の作品とも肩を並べうる風格と華やかさを兼ねそなえています。
ピアノ協奏曲第7番 イ長調 Op.132「イングランドへの告別」(リース)
さて、1827年に師ベートーヴェンが亡くなったちょうどその頃、フェルディナントはフランクフルトに移住します。
フランクフルトといえば、「不滅の恋人」候補のアントニー・ブレンターノとその夫の居住地でもありますね。フェルディナントと彼らが、亡きベートーヴェンとの思い出話に花を咲かせたとしても不思議ではありません。
とはいえ、フェルディナントはそうした思い出話を文章で綴ることにはあまり興味がありませんでした。彼は自分の社会的な役割はあくまでも音楽活動にあると考えていたようです。
しかしベートーヴェンの死から10年後の1837年。彼は同郷ボン出身の年上の親友ヴェーゲラーからの強い誘いに応えて、伝記の共同執筆を承諾します。ベートーヴェンの人気が亡くなってなお高まる一方で、虚偽の情報も横行しはじめていました。そうした状況を懸念して、彼はついにペンを執る決意をしたのです。
『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する伝記的覚書』(1838年)
翌年に出版された『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する伝記的覚書』は、今日でもベートーヴェンを知る上での重要な証言録のひとつとみなされています。たとえば、
「聴覚が悪化し、羊飼いの笛の音を聞き取れなくなってショックを受けた」
「ナポレオンにあこがれて『交響曲第3番「英雄」』を書いたが、彼の皇帝就任を知って激怒し、献呈先を変えてしまった」
など、子供向けのベートーヴェンの伝記にもよく取り上げられているエピソードは、フェルディナントの証言を出典としています。
その語り口は、ストレートかつユーモラス。友人とのケンカから演奏の失敗談まで、「ちょっと、それ言っちゃっていいの?」というエピソードまであけすけに書いています。彼にとってはすべてが若き日の楽しい思い出だったのでしょう。いわゆる「偉人ベートーヴェン」とは異なるベートーヴェンの人間的な一面がうかがえる本でもあります。
そんな彼、はたして師匠の恋愛事情については何かを書いているのでしょうか?
その答えは、舞台を見てのお楽しみ。──としておくことにしましょう。
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