舞台『Op.110 べートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』鑑賞ガイド
『Op.110』の世界を深く知りたい方に。舞台に登場する「ひと」「もの」「音楽」を、歴史的背景から解説するガイドです。
文:かげはら史帆 ライター
東京郊外生まれ。著書『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(柏書房)。ほか音楽雑誌、文芸誌、ウェブメディアにエッセイ、書評などを寄稿。
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第5回 肖像画家が描いたベートーヴェン
あの有名な肖像画を描いたのは……?
本作『Op.110 べートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』には、ベートーヴェンが登場しません。
ほかの登場人物のセリフや奏でられる音楽などから、ベートーヴェンの姿をイメージする想像力が必要です。
とはいえ、ベートーヴェンのビジュアルを思い浮かべるのは、多くの方にとって難しくないでしょう。
なんといったって、この肖像画があまりに有名ですよね……!
ベートーヴェンの肖像(49歳ごろ、シュティーラー画)
ひょっとしたらベートーヴェンの音楽よりも知られているかもしれない、この肖像画。
手掛けた画家はヨーゼフ・カール・シュティーラー。当時のドイツ語圏における有名画家のひとりで、ちょうどオーストリア皇帝フランツ1世の肖像画を描くためにウィーンを訪れ、ベートーヴェンの肖像画を描く機会を得たといわれています。
シュティーラーはほかにも文豪ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテや、ベートーヴェンの後輩世代の音楽家リヒャルト・ワーグナーなどの超大物の肖像画を描いています。
現代でいう有名写真家のような仕事をした肖像画家だといえるでしょう。
ゲーテの肖像(79歳ごろ、シュティーラー画)
もっとも、ベートーヴェンは何時間もじっと座っていられるタイプではありません。3回目まではなんとか我慢しましたが、4回目は拒否。手を描く時間をもらえず、シュティーラーは仕方なしにこの部分を想像で仕上げました。
持っている楽譜はベートーヴェンの大作のひとつ『ミサ・ソレムニス』。まだ初演も出版もされていなかったので、シュティーラーは直接ベートーヴェンに調性をたずね、「ニ長調」と書き入れたそうです。
ところで。
このシュティーラーという肖像画家、『Op.110』に登場する、とある人の肖像も手掛けています。
実はその画、これまでの「鑑賞ガイド」のなかにすでに登場しています。観察力の鋭い方はおわかりだと思いますがいかがでしょうか?
(答えは劇中でお察しいただけると思いますので、お楽しみに……!)
若い頃は短髪だったベートーヴェン
さて、舞台上の彼をよりリアルに「想像」するために、シュティーラー以外の画家によるベートーヴェンの肖像画も見ていきましょう。
まず、こちらが30代。
ベートーヴェンの肖像(32歳ごろ、ホルネマン画)
好青年といった雰囲気ですね!
後年に比べるとまだ髪も短くスッキリしています。実はこのヘアスタイル、19世紀初頭の感覚からするとかなりイマドキでした。
とき、フランス革命から十数年後。カツラをかぶる社会的な慣習が急速に廃れた頃でした。ベートーヴェンの短髪は、日本の明治初期でいうところの、ちょんまげを切り落とした「ざんぎり頭」。彼は音楽においても、ヘアスタイルにおいても、市民の文明開化の象徴として一世を風靡し、ウィーンの街を颯爽と歩いていたのでした。
若い頃のベートーヴェンは、イケメンではないけれど口元はきりっとして、生き生きとした魅力的な目をしている、といわれていました。ジュリエッタやジョゼフィーネと交際していた頃の彼は、女性からそれなりにモテたのでしょう。
神格化されるベートーヴェン
さて、音楽家として有名になるにつれ、ベートーヴェンをもっとカッコよく描きたい、と夢見る画家が現れだします。
その最初期の事例がこの肖像画です。
ベートーヴェンの肖像(34歳ごろ、メーラー画)
顔はホルネマンの肖像画と大きくは変わりませんが、全身が描かれているのでより迫力があります。意味深なのは、左手にたずさえたリラ(竪琴)。ピアニストであるベートーヴェンにあえて古代神話のイメージが強い楽器を持たせ、さらに右手の奥にはアポロンの神殿を描いています。
ベートーヴェンをいにしえの神々になぞらえているんですね。
まだ『運命』も『第九』も書いていないベートーヴェンですが、すでに彼を崇めたいという願望が世の中に現れだしていた、といえるでしょう。
こうした神聖化が、のちに描かれるシュティーラーの肖像画に結びついていきます。
ちなみに、ベートーヴェン本人が「俺のリアルな髪型に近い」と言っていたのは、こちらの肖像でした。
ベートーヴェンの肖像のスケッチ(47歳ごろ、クレーバー画)
なるほど比べてみると、シュティーラーの肖像画のヘアスタイルはちょっと作り込みすぎ(?)かもしれませんね。
写真技術が進化し、文化人が肖像写真を撮るようになるのは1840年前後から。ベートーヴェンも、あと10年と少し長生きしていたら写真が残っていたかもしれません。
しかし、画家たちの絵筆を通して伝えられたさまざまなベートーヴェンの姿も、また趣深いものがあります。
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